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クリエイティブって何だろう

クリエイティブって一体何なんでしょうね。

もうホントぜんぜんわかりません。


よくコピーライティングの本なんかには「人とモノとの関係性をつくる(=クリエイトする)こと」みたいに書いてありますが。


「俺にこのペンを売ってみろ」と言われたら、あなたはどうやって売るか?「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」に出てくるあまりに有名なやりとり。人とペンを結びつけるのはクリエイティブの為せる技だ。



それは俺には関係ねぇぜ、って思ってる人に、「いや、あなたに関係あるんですよこれ!」と言うこと。これがどんなに難しいか。クリエイティブ=個性的!ステキ!カッコイイ!みたいな単純な話ではなく、とんでもなく泥臭いことだと思う。


道でお姉さんがいきなり笑顔で手振ってきたと思ったら、クレカの勧誘だった。僕とクレジットカードという、無関係なもの同士をつなげるという意味では、クリエイティブな行為だ。めっちゃくちゃウザいけど。



クリエイティブな物って何だろう?
大福にいちご入れてみよう!→いちご大福、とか、針金を曲げてみよう!→ゼムクリップ、とか、だろうか。


ゼムクリップ考えた人ってマジでスゴイと思う。だってこれただの針金の棒だぜ。それを曲げただけの物を人がお金出して買ってんだもん。よくこんなん思いついたな〜って思いながら使ってます。


こういうのって、誰にでも思いつけるけど、誰にも思いつかないですよね。クリエイティブとは矛盾の産物ではないか。何かと何かの間に補助線を引くということ。橋渡しをすること。伝えるということ。


では、伝えたことが「わかる」というのはどういうことなんだろう?という泥沼にはまっていく。



僕は明治時代の西洋音楽受容の過程を卒論のテーマにしたんですが(内容はクソ&クソ)、当時の文献を見ると、もうそのときから「音楽がわかる、わからない論争」をしてるんですね。
「楽器が弾けない人は音楽を本質的に理解できていない」「洋楽は何言ってるかわからんけど素晴らしさはわかる」みたいの。


こういうの、現代の2ちゃんとかYouTubeのコメント欄とかでもしょっちゅう見ますよね。
150年前からおんなじようなことをずーーっと言い合ってんです、私たち。もうそろそろ「わかる」ということがどういうことなのか、前に進めてもいいのではないか?



蛇口をひねれば水が出る。あれどういう仕組みなんですかね?しかし仕組みをググって調べて、それは「わかった」ということなのだろうか?とも思うんです。そしてそのまま、わからない仕組みに囲まれて日常を過ごしている…。




で。


伝えるためには、最低限の体裁が必要だ。コードを押さえないと、どんなに個性の発露だ!と言ったところで誰にも理解されない。


「理解される」という手続を踏む必要があるのだ。では誰が踏むのか?それは他人だ。だから「わかる人だけわかればいい」「これがわからない奴は無能」みたいなのはもう、そいつのクリエイティビティ敗北宣言である。


伝えるために徹底的に手を尽くせ。「わかられない」という経験が重要だ。


何も文章のみが手段ではない。音楽でないと伝えられないこともあるだろうし、絵じゃないと伝えられないこともあるだろう。料理じゃないと、TikTokじゃないと、その他にも、色々。どれを選ぶのかはあなた。それが「個性」なのかなぁ。


そこまでして伝えたいことが自分のなかにあるのか?
しかも誰かに何かを伝えなくたって、ひとは生きていける。なぜそうまでして、誰かに何かを伝えたいんだろう?なぜひとはクリエイティブでありたいんだろうか?


しかも、伝えたいことが伝わらないばかりか、意図していないことが伝わったりする。
なんなんだろう、本当に。
もうぜんぜんわからない。
クリエイティブって何なんですかね?



そんなことばっかり考えているし、仕事にはまったく活かせそうもない。




小林秀雄が、わかるということとはつまり…ということを書いていた。『学生との対話』という本なんだけど、この間売ってしまった。何て書いてあったかなぁ…。

文庫版がたしか新潮文庫から出ていたし、おすすめ。

「講演は絶対に録音するな!」と言っていた小林の目をかいくぐって録音した講演録。
そこまでして記録したい、後世に残したいっていう講演って、ある?